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町指定文化財
天王塚古墳 藤根善冶の墓  
天王塚古墳
(昭和48年2月7日)
所在地/益子町益子
所有者/菊池信行
昭和29年(1954)から30年(1955)にかけて3次にわたり早稲田大学滝口宏教授による発掘調査が行われた。後円部南側のややくびれ部寄りで、墳頂下約2.2mに天井石を置く横穴式石室をもつ。

玄室  幅1.57m 長さ4.55m 高さ1.61m
 羨道  幅0.60m 長さ2.30m 高さ1.55m
     両側は平石積
 出土品 環頭太刀、鉄刀、兜、白銅鏡、青銅鈴、鈴杏葉、埴輪、鏡、馬具等

 天王塚古墳は益子町道祖土字荒久台にある古墳群(荒久台には28基の古墳が確認されている)の主墳と考えられている。築造年代は石室や副葬品の特徴から見て5世紀後半から6世紀前半である。
藤根善冶の墓
(昭和48年2月7日)
所在地/益子町益子3615
所有者/正宗寺
 藤根宗三郎善冶は、元禄2年(1689)館林藩重臣首藤民部介忠宗の三男として生まれ、各地を渡り歩いた後、享保3年(1718)益子村に流れついた。当時の益子陣屋代官佐野伊左衛門は、藤根の才覚を認め、道祖土に屋敷を与え郷士格で20石の食禄を支給し、家中に剣道、学問の指導を行わせた。
 享保12年(1727)3月、代官が江戸詰となり後任に横暴な松尾佐太夫が着任し、薪納を急に平年の2倍(1石につき3束)につり上げてしまった。翌13年は大凶作のため下の庄七ヵ村(益子、七井、生田目、深沢、上大羽、清水、稲毛田)では年貢を薪で納めることになった。しかも真岡の大沼河岸まで運ぶため領民の負担は増すばかりであった。しかし12月に入っても上納できず下の庄七ヵ村も名主16名は延納を嘆願したがなかなか聞き入れてもらえなかったが、善冶のとりなしでどうにか延納を許された。翌14年もまた凶作のため上納できず、ついに名主たちは牢舎に入れられてしまった。これを聞いた村民350名は一揆を起こし太平神社境内、城山裏手、正宗寺の三ヵ所から代官を襲撃しようとした。それを見た善冶は流血の事態を避けるために一揆勢を説得し、直訴の大罪を犯しても領民を救うため決死の覚悟で黒羽城に赴き、下の庄の窮状、一揆蜂起の動機と鎖撫に至るまでの経過を述べ、薪納の量を半減(1石につき1束5把)するよう領主に嘆願した。この結果、名主たちは全員釈放された。しかし善冶は捕らえられ翌享保15年2月16日益子陣屋西通り高札場前で、善冶(42歳)と妻寿江(40歳)息子道太郎(13歳)は直訴の重罪人として引き回しの上斬首に処せられ、7日間さらされた後領民に渡されて正宗寺に葬された。その後代官はこの不始末の責任を追及されて切腹となった。領民は善冶親子をお焚木様と尊称して供養を怠らなかったが、黒羽藩では幕府に知られるのを恐れ、その墓碑を土中深く埋め書類を焼却し領民には一切口外を禁止した。
 嘉永2年(1849)益子村名主飯塚新左ヱ門により石碑が発見され7月7日追善供養の大施餓鬼がなされた。その後明治13年(1880)7月、飯塚新左ヱ門、小口幸三郎らが発起人となり関係地域の有志の寄付によって墓を整備し、追善大法要が営まれた。

高館城跡 高館城跡 古代窯跡
高館城跡
(昭和48年2月7日)
所在地/益子町益子
所有者/笠間営林署
 益子氏の居城として、天正17年(1589)宇都宮国綱、芳賀高継らによって滅ぼされるまでの間、高館山の山頂を中心に構築された中世山城で、全国的に見てもとても規模が大きく、現在も当時の土塁や空堀の姿を見ることができる。また、南北朝時代は西明寺城とよばれ、関東六城(関、大宝、真壁、伊佐、中郡、西明寺)の最北端の城として活躍した歴史をもつ。
古代窯跡
(昭和48年2月7日)
所在地/益子町上大羽
所有者/平野良和
 大羽川の支流である栗生川によって開かれた谷沿いに分布している栗生窯業群跡(脇屋窯跡、東山窯跡、滝ノ入窯跡、倉見沢窯跡)をさす。出土遺物は須恵器の坏、高台付坏、蓋、壺、鉢、甕、および硯、瓦などであり9世紀代には窯の操業が行われていた。
 

安善寺境内 本沼窯業群跡 御城山遺跡
安善寺境内
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町大平202
所有者/安善寺
 本堂、板碑、シダレ桜、カヤ、イロハカエデ、ヒイラギ(いすれも町指定)の文化財があり、また、本堂右脇から前にかけて浄土庭園の一部を見ることができる。
本沼窯業群跡
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町本沼
所有者/菊島 明ほか
南流する桜川と北流する神崎川の上流域にあたり、これらの小河川に流入する支流によって開かれた谷の奥部に各窯業群跡(北山窯跡、毘沙門入窯跡、谷津入窯跡、カスガ入窯跡、古ヶ原入窯跡)が所在している。また丘陵を挟んだ西側には真岡市の南高岡窯業群跡が、また県境を南に越えた茨城県側には堀ノ内窯業群跡や花見堂窯業群跡が位置している。出土遺物は須恵器の坏、蓋、高台坏、甕、および女瓦等で8世紀後半には窯の操業が行われていた。
御城山遺跡
(平成3年6月11日)
所在地/益子町益子3021
所有者/益子町
 益子古城とも呼ばれ、古舘・高館城とともに益子氏の居城であった。発掘調査の結果、本郭を中心に空堀や堀切によって分けられ、本郭には10棟、南郭には4棟、東郭・西郭にはそれぞれ1棟の建物跡および井戸跡等を確認することができた。
 奥に見えるのは標高301.8mの高館山で山頂一帯には高館城跡(西明寺城跡)がみられる。

リンボク群生地帯 椎 ムベ
リンボク群生地帯
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺
本州関東以西・四国・九州の暖地の山中にはえる常緑高木。高さ5m内外。若枝は紫褐色、翌年黒味を帯びる。葉の長さ5p内外。革質で光沢があり、若木の葉縁は長いとげのあるきょ歯をもつ。花は晩秋。果実は翌年晩春に熟す。和名は誤ってりん木をあてたことになる。別名ヒイラギガシは若木の葉をヒイラギになぞらえ、カタザクラは材が堅いことに基づく。
 西明寺南西斜面に群生している。
クスノキ
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺
 本州関東以西から九州および中国などに分布。暖地に多くはえ、栽植もする常緑高木。高さ20m、径2m以上になる。葉は柄とともに8cm位、革質で光沢がある。花は晩春、両性花。全体に芳香があり材は数々の器具をつくり、樟脳を採り薬用とする。和名は「和訓栞」には「くすしき(奇)」の義としている。漢名樟。楠ではない。西明寺住持良泉和尚の誕生を記念して高野山から実を持ち帰り播いたものである。
ムベ
(昭和57年10月1日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺
 本州関東地方から琉球、南朝鮮の温帯から亜熱帯に分布。山地にはえ観賞用に栽植する常緑つる低木。花は晩春、雌雄同株。花弁はない。液花は長さ5p位、裂開せず、食用。和名は昔、この実を籠に入れて朝廷に献上したので大贄、すなわち苞苴という。これがウムベ、そして古名ウベと転訛した。昔は郁子と書いた。

シカクダケ 椎 菩提樹
シカクダケ
(昭和57年10月1日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺
中国南部原産、本州宮城県から九州に栽植されやぶをつくる常緑の竹。根茎は長く地中をはい、節から筍を秋に出し美味。桿は高さ3〜7m、径4p位、中空の鈍い四稜形。下部の数節から気根が出る。枝は節から3〜8本。葉の長さは15〜20p、先端が下垂する。花は咲いたことがない。和名四角竹、別名四方竹とも桿の形に基づく。漢名方竹。


(昭和48年2月7日)
所在地/益子町上大羽2350
所有者/綱神社

 宇都宮朝綱(第3代)の手植えとされる
菩提樹
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町上大羽945−1
所有者/地蔵院
 中国中部原産で寺院の庭によく植えられる落葉高木。若枝や葉裏に灰白色の星状毛が密生する。葉は長さ5〜10p、表面無毛。花は初夏、香りがよい。果実は径7〜8o、念珠を作る。釈迦が木の下で悟りをひらいたという菩提樹(漢名)はインドボダイジュでクワ科のもので、本種とは別のもの。葉形がにているという。
 現在の地蔵院本堂(旧尾羽寺阿弥陀堂)が室町時代に改築された際、植えられたといわれている。

糸桧葉 シダレ桜 カヤ
糸桧葉
(昭和60年2月15日)
所在地/益子町上大羽945−1
所有者/地蔵院
 光明寺が現在の地に建立される以前からあったといわれている。
植物学的にはヒヨクヒバ。観賞用として庭園に栽培される常緑小高木。高さ5〜6m。サワラの変種で、小枝や細枝が長く伸び糸のように垂れる。長いもので30p位。葉は鱗状で先のとがった上部はそりかえる。花は春、サワラと同じで雄花は黄褐色、雌花は紅紫色。球果は褐色だが、つけるのはまれ。和名は比翼ヒバで並んで垂れ下がるの意。
シダレ桜
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町大平202
所有者/安善寺
 現在1.5m位の高さから3本に分かれ繁茂している。安善寺再建の際、記念として植えたものといい伝えられている。
カヤ
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町大平202
所有者/安善寺
本州関東以西から九州の山地に他の樹木と混合してはえまた栽培される常緑高木。高さ20m、径90m。樹皮は滑らかで灰色、若枝は緑色だが後に赤褐色。小枝は三叉状。葉は光沢があり長さ2〜3p、螺施状またねじれた枝で左右2列。雌雄同株。花は晩春。種子は翌年晩秋に熟し食用や薬用となる。材は碁・将棋盤にする。種小名は堅果を有するの意味。
 安善寺を再建した際、財力不足のため門を建てることができなかったので、その代わりに植えたものといい伝えられている。

イロハカエデ ヒイラギ 金木犀
イロハカエデ
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町大平202
所有者/安善寺
  正式和名はタカオモミジ。本州・四国・九州および台湾・中国に分布し山地に普通に見られ、庭に栽植する落葉高木。一般にモミジと呼ばれ、多くの園芸品種があり紅葉を鑑賞する。花は春、葉とともに開く。和名は京都の高雄が名所で多くあるところに由来する。カエデは葉形が蛙の手ににているところから名づけられた。別名イロハカエデは葉の裂片が7つで、いろはにほへとと7つ数えることによる。
 現在の安善寺本堂建立の時に植えられたものといわれている。
ヒイラギ
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町大平202
所有者/安善寺
  本州関東以西から琉球および台湾の暖帯に分布、山地にはえるが、庭に栽植される常緑小高木。高さ3m位、樹皮灰色、よく分枝し葉も多い。葉は対生、硬く、長さ3〜5p。縁は鋭いとげ状のきょ歯だが老木では梢の葉は全縁。花は秋から初冬、香りがある。雌雄異株。和名疼木はひらぐ(痛む)の意味。厄除けに用いる木。種小名はilexのような葉の意味。
 平貞能の供養のため植えられたのではないかといわれている。
金木犀
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町山本1146
所有者/光明寺
庭木として栽植される中国原産の常緑小高木。高さ4m位になる。幹は太くてよく分枝する。葉は長さ5〜9p、革質で裏面が多少黄色味を帯びる。花は晩秋、強い芳香を放つ。がく4裂、雄しべ2、雌しべ1、雌雄異株で日本には雄株ばかりで子房は退化し結実しない。和名は橙黄色を金にたとえ、花の色に基づく。漢名丹桂。
 本堂建立の時、檀家の人達によって寄進されたものといい伝えられ、1本の幹から数本の枝に分かれている老木である。

梅 シダレ桜 タラヨウ

(昭和52年7月18日)
所在地/益子町山本1146
所有者/光明寺
 古代に日本へ渡来し、花は観賞、果実は食用として広く各地で栽培される落葉高木。中国中部原産。九州の大分県で野生化している。高さ6mになる。花は早春、昨年の枝の葉えきに葉より早く開き、芳香あり、通常白の5弁であるが、園芸品種は300を越える。和名は薬用にする鳥梅、または梅の漢音meiから転訛したものといわれる。漢名梅。
 幹の楯部は朽ちて空洞になっており、外層の木の皮の部分で幹を形づくっている。台木に支えられた幹の上方から枝が分かれ、その枝から小枝が密生している。
シダレ桜
(昭和52年7月18日)
所在地/益子町山本1146
所有者/光明寺
観賞用として神社や寺の境内また庭園に植えられる落葉高木。高さ25m、径1m以上にもなり樹齢も長い。学名はこちらが早く命名されたので母種のようだが、ウバヒガンの変種。枝が垂れ下がる性質があるだけでほとんど同じ。和名(シダレザクラ)別名(イトザクラ)とも細枝が糸のように長く垂れ下がるからいう。京都の祇園は有名。八重咲きや紅色の濃い種などもある。
 光明寺が現在の場所に移った時植えられたものと伝えられている。
タラヨウ
(昭和57年10月1日)
所在地/益子町長堤661
所有者/添谷尚世
 本州静岡県以西・四国・九州および中国中部に分布。山地にはえ、寺院や庭に栽植される高さ10m位の常緑高木。枝は太く無毛。葉は厚く滑らかな革質で光沢があり長さ10〜18p。花は晩春、雌雄異株。果実は径8o、翌春まで落ちない。和名多羅葉は昔葉面に傷つけて経文を書いたやし科の貝多羅の樹の葉にたとえたもの。別名モンツキシバ、ノコギリシバ。

     
梅 赤松  

(昭和57年10月1日)
所在地/益子町長堤661
所有者/添谷尚世
 益子町で1番大木の梅である。
赤松
(平成9年9月1日)
所在地/益子町小宅681
所有者/小宅小学校
北海道南部から九州の山野に最も普通にはえ、北方では海岸近くに、また植林もされる常緑針葉高木。高さ30m、径1.5m内外。樹皮は赤褐色で亀甲状の割れ目ができ薄くはげる。葉は針状で2本が対。晩春に若枝の頂に雌花、その下に雄花を多数つける。翌秋に種子は熟す。和名は樹皮からきている。冬芽の鱗片も赤褐色。 大正末期現在地に小学校が建設された時、地元の山林から地域の人々が記念樹として校庭に植えたが、戦後の校舎建て替えや校庭拡張により数回植え替えられた。奉安殿の景観を保持するために敷地内にあったが、昭和54年6月に体育館建設のとき現場所に移植された。当時10本あったものが枯死し、現在は2本のみである。
 
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