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円通寺一切経塔
(昭和33年4月25日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺
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円通寺四十世良範上人が文化6年
(1809)入山、再興したもので、中世より江戸時代まで文化の中心を成した大沢文庫の面影を伝える建物である。上下層とも三間四面で下層正面および両側に機唐戸を設け左右に花頭窓を開けている。上層は正面一間に板唐戸を設け、左右に丸窓を配しているので、正面の柱間装置が変化に富んでいる。上層は二重扇垂木で露盤上に宝珠を設けている。 |
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西明寺本堂
(昭和37年1月9日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺
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益子勝直によって開扉供養が行われ、元禄14年(1701)大改修で現在の形成
になった。柱は円柱で内法貫と頭貫をめぐらし隅柱外方には唐獅子彫刻を取り付け、
中備の蟇股は十二支が刻まれている。内部は中三間が蔀戸、他は引き違い板戸で
内外陣に分れ外陣天井は鏡天井で龍の墨絵が描かれている。内陣は格天井で人物花鳥等が描かれ単彩が施されている。内外陣の欄間は天女奏楽、鶴と仙人、浮舟上の仙人などの彩色彫刻がある。 |
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西明寺鐘楼
(昭和50年1月28日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺
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一層は角柱、二層は円柱で、組み物は三手出組、こぶし型木鼻を設けた古い型の鐘楼である。納札裏墨書「鐘楼供開眼清水寺塔供養同日也」とある。 |
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日下田邸(染色工房併用)
(平成8年8月20日)
所在地/益子町城内坂1
所有者/日下田 正
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藍染業「日下田紺屋」の住居と作業場を兼ねた建物である。
大戸を入ると左側は藍染めの作業場となっていて72個の藍染め用の甕が整然と並んでいる。甕場の天井は竹のすのこ張りで、その下に桁、梁の木組みが見える。右側は店や居間、納戸となっていて南側は奥座敷となっている。
かつて江戸時代中期から明治時代初期にかけて全国各地に存在し、日本人の衣料の80%を染めた藍染業の盛んだったころの紺屋の様子が窺える。 |
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益子参考館上台
(旧濱田庄司邸離れ)
(平成14年8月30日)
所在地/益子町大字益子3388
所有者/益子参考館
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益子町大字小宅の高野邸にあった分厚い茅屋根で覆われた110坪ほどの重厚な建物で、昭和17年(1942)に来客者の宿泊所とするために現在地に移築した。濱田庄司はこの建物を購入できたことをたいへん喜び、戦争をはさんだ影響もあるが約10年の歳月をかけてていねいに造作を加えた。戦争中は知人の疎開荷物の倉庫、その後は多くの国内外の収集品を納め、結婚するまでは晋作と磯辺棟梁が、その後は棟梁と庄司の弟子が収集品の盗難を防ぐことも兼ねて住居とした。また濱田家を訪れた数多くの来客者には収集品の鑑定場所や宿泊所としても使用した。 |
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絹本著色鮎図
(昭和48年11月27日)
所在地/益子町長堤28
所有者/堀中 勇 |
小泉斐は、明和7年(1770)益子村鹿島神社神宮木村市正の次男に生まれ那須郡両郷村(黒羽町)の小泉家の養子となり、祠宮を継いだ。若い頃京都に往来し島崎雲圃に画を学び鮎の絵を最も得意とする。斐の描いた鮎を水戸徳川公が称讃されたと伝えられ、後に谷文晁の門下となり、有名な鮎の画家として天下に認められた。本図は27匹の鮎が左右に泳いで青みを帯びた背の色、胸部などの黄色の輝きも美しい。これだけの群を描いたものはほかにあまりない。 |
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絹本著色 両界曼荼羅図 二幅
(平成14年8月30日)
所在地/益子町大字上大羽945-1
所有者/地蔵院 |
「両界曼荼羅」は密教の宇宙観を解き表した根本仏画で、厳格な師嗣相伝に基く加持祈祷の礼拝対象となる神秘の週法仏具である。「大日経」に基く胎退蔵界曼荼羅と、「金剛頂経」による金剛界曼荼羅の二幅からなる。本資料「両界曼荼羅」は、宇都宮氏ゆかりの地蔵院所蔵の、永禄十一年(1568)成立の什宝で墨書銘より筆者を宇都宮住螺来雅楽尉と特定できる貴重な歴史資料である。 |
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銅造阿弥陀如来立像・両脇侍
(昭和35年10月11日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺 |
善光寺式阿弥陀三尊で鎌倉時代末期の銅製の鋳造物として特色がある。円通寺の開祖良栄上人がこの三尊像を笈に入れて各地をまわり、円通寺創建時に持参したといわれ、代々の住持の護持仏とされている。背面地付部近くに「大沢山」の陰刻がある。 |
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銅造阿弥陀如来立像
(昭和35年10月11日)
所在地/益子町山本1146
所有者/光明寺 |
阿弥陀如来は、その印から、善光寺式阿弥陀如来として知られている。阿弥陀如来はその面相から、粒の大きい螺髪や髪際、大きくなった袖のひるがえりや足先に近い裳の端の形から、鎌倉時代後期の作と推定される。
また、眼の線ものびのびとして美しく、唇の表現も写実的であり柔らかい。衣の線も深く流麗である。 |
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木造如意輪観世音菩薩坐像
(昭和44年4月25日)
所在地/益子町益子2935
所有者/観音寺 |
左足を横たえ右足を立てて右肱をその膝に乗せて掌をほほにあてて、思惟には崇高な感じがある。また宝冠、瓔珞、光背の彫刻など精緻を極めている。 |
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木造弥陀如来坐像
(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺 |
二重円相の光背をバックに上品上生の印を結んで台座上に結跏趺坐している。
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木造良栄上人像
(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺 |
大沢山円通寺開山の祖良栄上人の像として伝えられていて、美しい金襴の袈裟をまとい、結跏跌坐している。
「大沢山円通寺開山御影 元禄八年五月三日開眼供養 願主 二十三世良諦 佛師益子村 小堀長勝」の墨書がある。 |
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木造閻魔大王坐像・両脇侍像
(昭和50年4月30日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺 |
彫刻手法は大胆にして精美、面相はその仏の様相を表現しており、納衣線など流麗である。またこれほど大きい閻魔大王はとてもめずらしく、地元では「笑いエンマ」として親しまれている。 |
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木造千手観音菩薩立像附木札六枚
(平成2年1月26日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺 |
頭部に化仏を植付け、二条の覆輪に一段弁形の天冠台をつけ、地髪部は正面から側面にかけて細かく彫りあらわし、後頭部及び天冠台上を平彫とする。正面に合掌手を組み、左肩から右脇に条帛をかけ、天衣は両肩を被って上膊部の内側にある。掌は一段折返しの上に腰布をつけ蓮肉上に両足を広げて直立する。
像内に弘長元年(1261)の造立の木札1枚、弘長2年(1262)の木札1枚、寛文4年(1664)の修理の木札2枚、宝暦12年(1762)の修理の木札1枚、寛政12年(1800)の修理の木札1枚、計6枚の墨書木札が納入されている。 |
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木造千手観音菩薩坐像
(平成2年1月26日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺
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頭頂の化仏(髻頂に如来面、天冠台上の正面に蓮華坐付の如来立像一面、左右に菩薩七面)は二段に植付ける。二条の覆輪に一段弁形の天冠台をつけ、その下に地髪部を毛彫り、他は平彫りとする。小さな水晶製の白毛相、三道彫出、耳朶環状。条帛を左肩より右脇にかけ、天衣は両肩より合掌手にかかる。腰には折返しの裳をつけ、右足を外にして結跏趺坐する。胸には瓔珞、合掌手と宝鉢手に腕釧をつける。 |
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| 木造聖観音菩薩立像 |
木造馬頭観音菩薩立像 |
木造勢至菩薩立像 |
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| 木造准胝観音菩薩立像 |
木造如意輪観音菩薩坐像 |
木造延命観音菩薩立像 |
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| 木造毘沙門天立像 |
木造十一面観音菩薩立像 |
西明寺本堂厨子内仏像群
(平成4年2月28日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺 |
木造聖観音菩薩立像 像高 178cm
木造馬頭観音菩薩立像 像高 170cm
木造勢至菩薩立像 像高 92.5cm
木造准胝観音菩薩立像 像高 114.6cm
木造如意輪観音菩薩坐像 像高 63cm
木造延命観音菩薩立像 像高 177cm
木造毘沙門天立像 像高 78cm
木造十一面観音菩薩立像 像高 105.3cm
桧材、寄木造り、彫眼、鎌倉時代作(ただし如意輪観音菩薩坐像・延命観音菩薩立像は室町時代作) |
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| 観音菩薩坐像 |
阿弥陀如来立像 |
勢至菩薩立像 |
木造阿弥陀三尊像
(平成2年1月26日)
所在地/益子町上大羽945-1
所有者/地蔵院 |
観音菩薩坐像 40.3cm 桧材、一木割矧ぎ造り、玉眼、鎌倉時代
阿弥陀如来立像 99.8cm 桧材、寄木造り、玉眼、南北朝時代
勢至菩薩立像 66.5cm 桧材、一木割矧ぎ造り、玉眼、鎌倉時代
表面の箔は寛永10年(1633)に京都の白川に住む仏師慶運によって修理された際のものである。衣文線の複雑な乱れや動きのある体?などは宋風(中国宋時代の様式)の影響を受けた作であり、慶派系(運慶一門)の仏師によってつくられた仏像である。 |
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| 観音菩薩立像 |
阿弥陀如来坐像 |
勢至菩薩立像 |
木造阿弥陀三尊像
(平成2年1月26日)
所在地/益子町上大羽945-1
所有者/地蔵院 |
観音菩薩立像 102.8cm 桧材、一木割矧ぎ造り、彫眼、平安時代
阿弥陀如来坐像 85.6cm 桧材、寄木造り、彫眼、平安時代
勢至菩薩立像 103.0cm 桧材、一木割矧ぎ造り、彫眼、平安時代
本像は宇都宮朝綱が建立した尾羽寺の本尊であったものを火災の際運び出したと伝えられる。 |
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梵鐘
(昭和50年4月30日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺
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嘉歴3年(1328)に梵鐘を鋳造し鐘楼が建立されたが、梵鐘はその後の破損のため寛文11年(1671)に鋳直し、その際旧銘を刻したと伝えられている。銘文には「一打鐘声 当願衆生 脱三界苦 得見菩提 願請賢聖 同入道場 願諸悪趣 倶時離苦 嘉歴三戊辰三月十一日 以上旧銘也 旧鐘口二尺也 今破損 故今度高橋道讃為二世安全二尺二寸鋳直会寄進者也 下野国真壁郡益子郷 独鈷山西明寺鴻鐘菜也 観音寺長栄書之 願人 尭識坊大工 大沢村藤原住 岩埼惣兵衛宗清 寛文十一壬子天南呂九日」とある。 |
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正親町天皇綸旨
(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺
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蔵人の右中弁中御門宣教が円通寺第十代住持良迦上人あてに、円通寺を勅願所(天皇の命を受け、国家安全などを祈願する寺院のこと)とする正親町天皇の綸旨の内容が書かれている。綸旨は宮中の庶務を掌る蔵人が天皇の仰せを奉じて出す文書であり、料紙は薄墨紙(宿紙ともいう)を用いるので、これを綸旨紙ともいう。当時の円通寺の地位の高さを物語る貴重な資料である。
封紙上書に「圓通寺住持良迦上人御房 右中辨宣教」とある。
本書には「當寺被補 勅願所候訖 宜奉祈國家安全寶祚長久者 天氣如此 仍執達如件 天正二年六月廿六日 右中辨(花押)圓通寺良迦上人御房」とある。 |
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聖鬮賛
(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺
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本書は「初学題学習」(全4巻)の注釈書である。初学題学習は良山の著書で、良天・良栄と相伝した秘書である。奥書に「右此十六巻不憚愚為文庫塵拂 奉納 大澤山圓通寺 住関上人住持内 袋中(花押) 本末都廿三帖也 元和九年癸亥夏日伝爾従南都贈之」とあるように、元和9年(1623)奈良から円通寺へ大沢文庫の書籍として奉納されたものである。全16冊のうち第3巻が欠本となっているので15冊しか現存しない。 |
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浄土総系図
(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺 |
1巻目(写真上)は、浄土宗の系図を鎮西派名越流を中心に編述したもので、表書きに「浄土惣系圖 重箱入也」とあり、奥書には「時元禄十一寅年七月晦日 良因拝写」とある。冒頭に印度、中国、日本の三国の祖師たちの教義を列記してある。源空上人(法然上人)のそれはやや詳しい。次に法然門下の上人たちを列挙してある。そしてその後に聖光上人の鎮西派を筆頭にして系図が記載されている。三祖良忠門下では礼阿がやや詳しく6人の弟子をあげ、次に道光は3人の弟子をあげている。寂恵、慈心、聖真に至ってはわずかに当人の名前だけである。それに反して良弁の門流は良慶、良山、良天と実に詳細にわたって記してあり、特に良栄の門流が最も詳細である。鎮西派の後に善恵上人、隆寛上人、成覚上人、法蓮上人、正信上人の順にそれぞれの系図が記載されている。そして最後に踊念佛の門流と法然上人の在家弟子の系譜が付記されている。この系図は、円通寺の学僧によって編述されたものを元禄11年(1698)に良因が写したものである。
もう1巻(写真下)も浄土宗の系図ではあるが、内容は1巻目とは多少異なる。表書きに「浄土惣系圖 圓通寺不出 主良住」とあり奥書には「永正三年丙寅三月九日 融舜示之(花押)―浄土宗伝方空仰性秀」とある。寺伝によれば、この巻は江戸初期に良定が京都で入手し円通寺に寄進したものという。 |
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月形凾文書
(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺
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浄土宗鎮西義名越派大沢流の教義の真髄を説いた最も重要な文書である。良栄をはじめ歴代の住持の口述筆記した秘伝書を納めたこの月形凾は、住持替の時だけ7日潔斎、3日精進の後に引き継がれるべきものであり、たとえ弟子といえどもその凾内を見ることは許されなかった。 |
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浄土鎮西義名越派代々印璽脈譜
(昭和52年2月15日)
所在地/益子町大沢1770
所有者/円通寺 |
上巻は「浄土相傅」として法然上人より良堯にいたる血脈を記し、応永18年(1411)良栄から良堯に左手と右手の朱印を押して授けたのをはじめに、天正11年(1583)良興より良賢に授けたものまで11通である。中巻は元禄9年(1696)良安が序文を記し、文政4年(1821)良範にいたるまで25通である。下巻は文政11年良猛より明治14年(1881)良頓にいたる11通の血脈を収めている。いずれも法然上人から授けられた住持までの血脈を記し、年月日と授けた住持の署名・花押、両手の朱印を押している。またこれら3巻は、元禄9年(1696)寄進された凾に納められている。 |
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瓶子
(昭和35年10月11日)
所在地/益子町益子4469
所有者/西明寺 |
口頸部を欠いているが、上肩より上腹にかけて大きく張り球状に丸みをもっていて、下腹を絞り底部に至って外反している。上肩部に3個の印花文が4ヵ所型押しされ、灰釉が黄緑色に縞状に流れるなど古瀬戸の特徴をよく表現している。昭和23年(1948)西明寺本堂裏山の河原石を方形に囲んであった旧墓所より出土した。 |
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