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益子の文化
益子には国指定文化財をはじめ、県、町の指定するものまで、多くの文化財が残っています。
国指定文化財県指定文化財町指定文化財

伝統文化
町指定文化財1234567
■ 五輪塔及び瓶子(昭和48年2月7日)
所在地/益子町上山53 所有者/普門寺
大郷戸廃寺跡の五輪塔群発見のおり、五輪塔1基及び骨蔵器である瓶子を寺内に移し供養した。
羽石家五輪塔(昭和48年2月7日)
所在地/益子町前沢896 所有者/長谷寺
これらの五輪塔は鎌倉時代から室町時代のもので、約300年間田野城主として一帯を支配してきた羽石家の墓である。また長谷寺は文永11年(1274)初代宗時によって建立されたが、建武2年(1335)に焼失したため、歴応4年(1341)時實によって現在地に再建したものである。
大郷戸廃寺跡五輪塔(昭和48年2月7日)
所在地/益子町大郷戸 所有者/益子町
大郷戸廃寺跡近くの行灯峰山中(もとは国有林であったが、戦後中腹より下が開放になり開墾され畑地となっていた)より、昭和35年(1960)4月21日土砂崩れによりおびただしい数の五輪塔が散在した状態で現れた。また、五輪塔とともに火葬骨を入れた瓶子5個が発見され、そのうち五輪塔1基と瓶子1個は供養のため普門寺に納められたが、推定で15基ほどの五輪が持ち去られた。残りの大部分は畑の土止めに使っていたが、地区内に病気が続発したのに驚き、5基を組み立てて供養したのが現在の五輪塔である。時期は鎌倉時代末期から室町時代初期頃のもとと推定される。これらの五輪塔は、益子氏の墓という説もあるが、裏付けとなる資料は現在のところない。また、最近の発掘調査の結果、5基の五輪塔の他に地輪20基、水輪3基、火輪21基、空風輪20基が確認できた。
芦沼獅子舞(昭和49年3月28日)
所在地/益子町芦沼 保存団体/芦沼獅子舞保存会
通称「芦沼のササラ」と呼ばれ、以前は旧暦の6月23日の奉経塔祭に笠揃い(神子の舞のみ上演)7月9日の観音堂万燈祭の夜に本庭(全部舞うこと)7月24日の地蔵尊縁日に笠抜き(舞子の舞のみ上演)として獅子舞が行われた。舞は芦沼の各戸の長男により伝承されている。
 約800年前、御館山に陣を構えた八幡太郎義家が勇壮な舞により士気を高めたと伝えられる。また、獅子頭は享保年間(1716〜1736)に作り変えられたといわれているが詳細は不明。また雌獅子の甲掛は絹を用いているが、これは八幡太郎義家に許されたものとされ、徳川幕府の絹織物着用禁制の折にも茂木藩主細川公の配慮で許された。文書の記録はなく、芸能の開始時期は不明であるが、江戸時代は行われていた。一時途絶えていたが昭和47年(1972)に復活する。
■ 八坂神社御神酒頂戴式(昭和60年2月15日)
所在地/益子町益子 所有者/益子町大字益子
益子町(旧益子地区)の夏祭り祇園祭(天王祭)は、毎年7月23日は出御式、24日は御神酒頂戴式、25日は還御祭、御上覧と3日間にわたって行われる。
 御神酒頂戴式は内町・新町・田町・道祖土・城内の五町が毎年順に行っている当番受け渡しの儀式である。1年365日にちなんで、3升6合5勺入りの大杯に注がれた爛酒を飲み干し、五穀豊穣、無病息災、家内安全を祈願する。この式は黒羽藩主大関公の代官の前で行われ、かつ大関公より御神酒が下された故事によるといわれているが、現在は五町の自治公民館等で行われている。
 なお、歴史を遡れば、明和2年(1766)の頃より八坂神社の祭典に際し、大関公により各地区へ御神杯賄ったといわれている。御神酒は7合入り3杯、3合入り2杯で、各地区ごと一座となってこの御神酒を頂いた。その席において翌年より御神酒頂戴式の持ち方が現在行われているようなものに全員で決定されたようである。また大杯は旧暦で1年360日ひとり1日1勺として3升6合とされていたが、嘉永6年(1854)になって、大杯は会津朱塗大杯となってから3升6合5勺となった。
山本太々神楽(平成19年6月26日)
所在地/益子町山本 所有者/山本鹿島神社氏子
奉納日/以前は11月15日に実施していたが、現在はそれに近い日曜日(鹿島神社の例大祭)に行われる。
明治初期に当地有志により真岡の大前神社の太々神楽を習い覚えたといわれている。鹿島神社の例大祭に五穀豊穣を願って奉納されたが、昭和30年後半からは途切れがちになってきて、存続の危機となったが、昭和45年から地元山本4Hクラブが中心となって現在に至る。復活当初は演目も少なかったが、長堤八幡宮比講の添谷邦男氏の指導を受け、現在は11演目を上演できるようになった。
初座として神楽殿に舞人全員が上がり、代表者が礼拝の後に奉幣を持って神楽殿の四方を祓う舞がまず行われる。その後、五行の舞、イザナギ・イザナミの舞、猿田彦の舞、悪鬼の舞、天狐白狐の舞、右大臣左大臣の舞(ホッキョの舞)、恵比寿大黒の舞(事代の舞)、鬼女の舞、鈿女(うずめ)の舞、天の岩戸の舞が行われる。舞の順序は必ずしも一定しないが必ず天の岩戸の舞で終わる。また、恵比寿大黒の舞、天狐白狐の舞では餅がまかれる。
長堤太々神楽(平成19年6月26日)
所在地/益子町長堤 所有者/長堤八幡神社宮比講
奉納日/以前は旧暦の8月15日(新暦の9月15日の敬老の日)に実施していたが、平成17年以降は、10月第2日曜日に実施している。
明治期に真岡の大前神社の太々神楽を習得したものという。 八幡宮での神事終了後に神楽の上演が行われる。まず神主による祝詞奏上に続いて弊舞(初座)が行われ、宮比講の代表者が幣束を持って神楽殿の四方を祓い清めるが、この舞の時には面をつけない。その後、五行の舞、イザナギ・イザナミの舞、猿田彦の舞、悪鬼の舞、天狐白狐の舞、ホッキョの舞、鬼女の舞、事代の舞、ウズメの舞、天の岩戸の舞が行われる。毎年必ずしも全ての舞を上演するとは限らず、五行の舞、イザナギ・イザナミの舞、天狐白狐の舞(餅をまく)、鬼女の舞、事代の舞(餅をまく)、岩戸の舞(餅をまく)を中心に行われる。
綱神社太々神楽(平成19年6月26日)
所在地/益子町上大羽 所有者/綱神社太々神楽保存会
奉納日/11月第2日曜日
幕末(文政年間)に田中長兵衛を中心に村人たちが、現在の茨城県築西市(旧協和町)の小栗内外神宮伝承の神楽を習得したことによる。終戦後保存会は後継者難によって一時中断していたが、地域の婦人たちが保存会に参加して継承してきた。昭和50年代後半には、氏子の子弟が笛、太鼓の演奏と舞を受け継いで現在に至っている。
また、平成10年には大羽小学校に伝統芸能クラブが発足したことから保存会が指導にあたって、現在では小中学生が秋の例大祭に奉納しているほか、町の生涯学習振興大会での披露、神社庁芳賀支部創立60周年には益子町代表として出演するなどの実績を残している。
子供たちの衣装は、保存会が昭和40年代後半に後継者育成のために当時の中学生に指導してきた中で用意したものを活用し、保存会が使用している衣装は、昭和50年代前半に一部新調した。さらに神楽面の傷みが進んでいたことにより、平成2年に益子町と栃木県の補助により修理を行った。 舞の順序は、初座、五行の舞、恵比寿大黒の舞、天狐白狐の舞、岩戸の舞が主体となる。
妙伝寺の雅楽 (平成19年6月26日)
所在地/益子町山本724 所有者/妙伝寺
奉納日/正月会(1月1日)、降誕会(5月20日)、報恩講(12月11日、12日) 明治20年初め頃に、妙伝寺第3世住職天慶法師が兵庫県神戸市より伝えた。
演奏者は現在で7代目となり、平成17年より後継者の育成に努めている。
報恩講などの法要の開始時及び終わりに演奏する。その他に結婚式や葬儀、学校祭や地域の行事などにも依頼があれば演奏する。演目は越天楽、五常楽、皇じょう急などである。楽人は各自白衣の上に水色地の切り袴をはき、その上に狩衣をまとう。頭には立烏帽子をかぶり、足には白足袋をはく。
天王塚古墳(昭和48年2月7日)
所在地/益子町益子 所有者/菊池信行
昭和29年(1954)から30年(1955)にかけて3次にわたり早稲田大学滝口宏教授による発掘調査が行われた。後円部南側のややくびれ部寄りで、墳頂下約2.2mに天井石を置く横穴式石室をもつ。
玄室  幅1.57m 長さ4.55m 高さ1.61m
 羨道  幅0.60m 長さ2.30m 高さ1.55m
     両側は平石積
 出土品 環頭太刀、鉄刀、兜、白銅鏡、青銅鈴、鈴杏葉、埴輪、鏡、馬具等
 天王塚古墳は益子町道祖土字荒久台にある古墳群(荒久台には28基の古墳が確認されている)の主墳と考えられている。築造年代は石室や副葬品の特徴から見て5世紀後半から6世紀前半である。